『ベトナム語』預言者と老子
phật giáo は仏教で、phậtは漢越語の仏、giáo は漢越語の教で日本と同じ仏教そのものである。
そうした言葉を学習していく中でthần神とかthánh聖人とか色々な言葉に混じってthầy đồng預言者という言葉があった。
意味を調べるとthầy は先生とか師という意味がある。đồng は銅とかお金とか同じとか色んな意味に使われるが、祈祷師にも使われるようで、ここではそういう意味で使っていると思われる。
ここでふと思った、そう言えば女性の先生はcô giáo で、côは親の年下の姉妹くらいの年齢の女性を示す人称代名詞だけど、男性の先生はthầy giáoで、このthầyは何の意味だか知らずに使っていたのだけど、thầy が先生や師の意味だと知ると、先生を意味する男女の言葉に大きな差があると感じた。
男性教師を意味するthầy giáo は先生+教えるの意味であるのに対して、女性教師を意味するcô giáo は年上の女性+教えるなのだ。
女性教師の方は年上の女性で教えてくれる人くらいの意味しか無く、先生、師、というニュアンスが抜け落ちている。
まぁ先生という漢字も先に生まれただけの意味という事も出来るけど、なんかちょっと引っかかる。
親より少し年下の男性を表す人称代名詞はchúなので、男性教師はchú giáoとでも呼べば公平感があるなぁなんて思った。
もっとも、ベトナムも日本も漢字文化圏であり、多くの単語を中国語から借用しているので、こうした男性と女性で不平等な表現というのは多々あり、日本人がベトナム語の不公平感を指摘してもしょうがないとも言える。
日本語の表現で「雌雄を決する」なんて言葉はまさに勝者を雄(男性)敗者を雌(女性)としているのだし、「雌伏の時」「雄飛する」など、伏せている時は雌で、立ち上がったら雄と、これまた差別的だが、だからといってこういう言葉を使うなというのは言葉狩りだなと、日本人の私は思うのだからベトナム語表現をいちいち公平ではないと指摘するべきではないのだろう。
だから、これはちょっとした発見が面白かったというところで終わらせておくべきである。
面白かったと言えば道教はベトナム語でĐạo Lãoなのだけど、Đạoは漢越語の「道」、Lãoは漢越語で「老」なのである。これ、道教がどんな宗教というか思想かを知らなければ意味はわからないけど、道教が老子や莊子の老荘思想を元にしたものである事を知っていればなるほどっとなるわけである。
老子の教えであるから道+老でĐạo Lãoとなる。
なお、この「đạo=道」は道教の道という意味ではないようで、イスラム教はđạo Hồi ユダヤ教はđạo Do Thái ヒンズー教はđạo Hin Đuという感じで、多くの宗教は先頭に「道」が付いている。
道教をこの法則で記せばđạo đạo 道+道になる。だからLão=老になっているのかもしれない。仏教が漢字そのままでphật giáo なのだから道教もđạo giáoでいいんじゃないの?って思うけど、đạo=道が宗教全般を意味する言葉になっちゃっているから紛らわしいのかな?
ここまで記して、思った。
こうやって意味を調べたり考えたりするのは面白いし深く記憶に残るのでお得な感じ。
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