『ごっつ三国』自由になるための束縛

少し前、このブログで「連合戦について思うこと」という記事を書いた。
このように時間が限定されたイベントを私は好まない。
私は以前、パズドラ(パズル&ドラゴンズというゲーム)を遊んでいた時期があったが、熱中していた時は曜日ごとのダンジョンを必死になってプレイしていた。
詳細は覚えていないが曜日ごとのダンジョンは曜日ごとに手に入るものが異なっていた。
その為、その瞬間を逃すと、次に手に入るのは一週間後となる。
その時の私は、なんとかその日のうちに取れるだけ取りたいという気持ちにかられ、ギリギリまでプレイしていた記憶がある。
だが、それは、期間を限定することによって、その時にしか手に入らないから手に入れておかないと勿体無いという感情を刺激する為の仕組みであり、価値のないものに価値を作る為の演出であることは明白であった。
であるから、私はパズドラを遊ぶことをやめた。
しかし、このような事はパズドラだけの問題ではなくて、日本で利用されている多くの無料で遊べる課金型のゲームでは同じような事が行われている。
もっと前に私がゲームシステムの分析の為にプレイしていた「神撃のバハムート」という作品でも一定時間毎に回復するシステムで頻繁にアクセスする人が有利であった。
分析のためにプレイしていたとはいえ、本気でやらないと本気で遊んでいる人の気持はわからないから私も本気でプレイしていたので、無駄なくメリットを得られるように寝る直前にアクセスしたり、起きた直後にアクセスしたりしていたが、暫くしてこれが何の価値もないものに価値を持たせるための仕組みであり、人が持つ勿体無いという感情を刺激する仕組みであることを理解し、そしてプレイをやめた。
『ごっつ三国』は『神撃のバハムート』ほどにゲーム性の薄い作品ではないが、畑から手に入る俵は定期的にアクセスした方が得であり、それを気にし過ぎれば生活のリズムをゲームに支配されかねない。

生活の中にあるちょっとした息抜きのはずのゲームが主従逆転して生活のリズムを制御し始める自体になってしまうのである。
もっとも趣味というのは目的と手段の逆転こそが趣味なのだろうということも出来る。
しかし、少なくとも私にとってゲームアプリ『ごっつ三国』は趣味というほどのものでもなく、息抜きと分析対象でしかないので、主従逆転を許すわけにはいかない。
始めるとついつい熱中して最善を尽くそうとしてしまうが、生活のリズムをゲームに左右されるのはまっぴらごめんである。
なので、私は20時限定のイベントには当分参加しない。

いままでは参加できるときには参加するというスタンスであったが、そうしていると、出来るだけ参加しようと思ってしまうし、家族との食事中に、いま参加したら有利だなと思ってしまったりするのである。
そういうふうに特定の時間にゲームのイベントを気にするというのは既に自分の生活がゲームにコントロールされ始めているという事である。
20時イベントに参加しないと決めてみると、なんと気持ちが軽いのだろうと思った。
時間限定のイベントに参加しない事は素晴らしく精神の安定をもたらす。
それに、『ごっつ三国』のメリットである放置できる事は、もともと気持ちを楽にプレイできる要素なのだから時間を限定したイベントはゲームの方向性と矛盾しているのだと感じる。


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